32〜33.五月の連休は秘峰を目指す・男鹿岳と大佐飛山


期間:2002.5.4〜5.5 天候:(5.4曇り 5.5曇り後晴れ) 単独行
男鹿岳1777.1m 大佐飛山1908.4m地図:板室.那須岳.栗生沢.日留賀岳
コースタイム:(5・4)塩那スカイラインゲート6:20−川見曾根(7.9km)7:30−本部跡7:45−見晴台8:25-8:30−石楠花岩(12.6km)8:55−貫通広場9:10−月見坂10:05−那須見台(18.2km)10:55−男鹿峠11:55-12:10−女鹿岳12:40−男鹿岳12:55-13:10−男鹿峠13:50-14:00−ひょうたん峠14:20(幕営)


山行記録:那須連峰の西にあって、奥塩原の日留賀岳との間に大きな山塊がある。これが大佐飛山塊で主峰は大佐飛山である。男鹿岳はその奥、県境尾根に位置している。こちらは日本三百名山にも選ばれていた。
私は例年、ゴールデンウィークは日本各地の三百名山を求めて、九州や四国、あるいは近畿といった遠方へ出かけていた。その三百名山も踏破出来たので、昨年は妻を案内して、伊吹山、八経ヶ岳と大台ヶ原山を歩いて来た。そして今年は栃木の山、それも残雪期にしか登れない山を目指そうと思っていた。真っ先に頭に浮かんだのは大佐飛山塊の雄、大佐飛山だった。そして隣に位置する男鹿岳は以前三百名山巡り時、登ってはいたが、山頂での記念写真のない唯一の山だった。早速大佐飛山と男鹿岳をセットにして計画を立てた。
藪が立ち上がり始めた尾根も多いだろうから、やはり天候の良い日に登りたいと思っていた。4月は足尾に木を植える会に参加、その他は栗山や湯西川の残雪期の山へ出かけ、5月の3~4日を予定していた。ところが町内の人達とのバーベキューの付き合いもあって一日ずれ込んでしまった。天気予報では小雨となっていたから、雨の中の藪漕ぎは避けたい。1994年辿った、藤原町横川集落からの自衛隊の資材搬入路だった廃道歩きは中止し、やむなく単調な歩きが延々と続く、塩那スカイラインを板室より歩く事に変更した。
板室ゲート手前に駐車し、6時20分アスファルトの道を歩き出した。覚悟はしていても車道を20kmも歩くのは、とても登山と言えようかと、自問しつつ黙々と歩き続けた。未だ視界が良いのが唯一の救いで、谷の向こうにはこれから辿る塩那スカイラインが伸び、木ノ俣川の向こうには百村山から黒滝山の山並、これを北西に辿って行くと大佐飛山へ至る。本来このコースが大佐飛山へのメィンルートであろう。東には白煙を靡かせて那須茶臼岳、手前には南月山から白笹山と黒尾谷山が望めた。ここの木々も5月、芽吹きを迎えている。食べ頃のタラノメには私の目が動くが、これは明日の楽しい土産にしよう。
1時間後、この塩那スカイラインを自衛隊が施工した時の本部跡へ到着した。ここには大きなコンクリートブロックが置かれ、万が一の車の進入を阻止していた。
この塩那スカイラインは当初、観光道路を目指して那須から塩原を結ぶ予定で、当時の栃木県横川知事が着工を指示したが、予算が乏しく自衛隊に工事協力を依頼した。その時資材の搬入路としたのが藤原町横川集落からの道だったが、今は廃道となってしまった。予算もなく施工した工事は基本的な砂防対策が脆弱で、どんどん工事は進んでも、それは自然破壊であるとの批判が強まる中、工事費はかさんで結局工事は中止となった。以来今日まで完成の目途はたっていない。今も自然破壊が止まらず、この砂防対策に名を借りて、道路工事を進めているのが現状であった。
本部跡より先は、自衛隊が強引に進めた道路が残され、今も道は上から落石、下は路肩の崩落が続いて自然破壊が止まらず、悲しむべき状態のままだった。
そんな思いの中、木ノ俣川の谷の向かいには、大佐飛山が近くそして高く聳えていた。北西の男鹿岳がぐんぐんと近づいて来た。いずれも谷筋には残雪を多く留めていた。
北へ伸びていた道が西に向きを変え、男鹿岳の懐へ飛び込む様にして高度を上げる。ここが月見坂だった。残雪が道を埋めて来る。ザックは重く、急激に高度を上げる変化にふうふうと息が乱れる。前方より男性が一人降りて来た。挨拶を交わすと、彼はゲートを4時にスタートし、男鹿岳をピストン登山して来たとの事。ゲート前に1台の車が停まっていたのは彼のものだった。それにしても日帰りザックの軽さが羨ましい程、快調に下って行く彼の後ろ姿を見送った。
男鹿岳の直下をトラバースする道を残雪が埋め尽くし、油断すると、木ノ俣川へと100m以上を一気に滑落してしまう。慎重に登り進み、やがて男鹿岳へ南より取り付く、男鹿峠へ12時前に到達出来た。
ここでサブザックを取り出し、今まで背負って来た大型ザックは峠近くの木へ固定した。やっと登山らしい登りとなった。藪漕ぎよりも残雪の尾根を辿りたいと思っても、それは僅かしか残っていない。しかしここには先人の残した赤布、赤テープや先程の単独行者のトレースが残り、迷う心配はなかった。ここは以前横川より男鹿岳へ登っていただけに、不安は全くなかった。
藪を掻き分けつつ登る。振り返れば大佐飛山がさらに大きくなって、圧倒される程で、その雪の急斜面と共に素晴らしい山を実感でき、シャッターを押した。30分で南のピーク、女鹿岳へ到着した。雪の稜線が真北へと伸びていた。さらに15分後、男鹿岳山頂に到着した。時に13時55分だった。
山頂部は樹林に囲まれ、残雪に覆われているものの、シラベ等の落ち葉で黒ずみ、三角点標石は雪の下、山名標識のみが雪の中に立っていた。先ずはザックよりカメラを取り出し、セルフタイマーで記念写真を撮った。前回の登頂時は三脚を忘れて、ついに自分の登頂を撮影する事なく下山していただけに、先ずは一安心と、腰を降ろしパンをジュースと共に口へ運んで休憩を取った。西に那須茶臼岳、手前に三本槍岳より流石山から大倉山への白い稜線が望めた。
15分後、男鹿山頂を降りた。再び同じ尾根を戻って、ザックのデポ地点に戻った。重いザックを再び背負い、フキノトウが顔を出すスカイラインを西南に辿って、14時20分ひょうたん峠に到着した。
ここは大きく道が膨らみ、尾根を下って大佐飛山へ向かう地点で、木にはテープが巻かれていて、これは以前確認した時のままだった。
早速テントを張り、早々に潜り込み、早めの夕食を取った。外で人声がするので出てみると、東京から来た3人組だった。会津高原駅で降り、山王峠より栃木と福島県境を辿って、昨夜はテント泊をして、男鹿岳を登って来たとの事。明日は大佐飛山をピストンして、日留賀岳山頂で幕営して、次の日、塩原温泉に下山の予定との事だった。空は今にも降り出しそうな曇り空となっていた。
コースタイム:(5月5日)ひょうたん峠4:30−名無山5:40−大佐飛山6:45-7:00−名無山8:00−ひょうたん峠10:45−11:15−板室ゲート1800
4時前に目が覚めた。気になる空は今にも雨が降り出しそうな曇り空だった。パンとバナナの朝食を取り、雨具上下を着てサブザックスタイルで、4時30分歩きだした。隣のテントの中でも出発を急いでいた。
いきなりシャクナゲの中への急激な下りだ。わずかに踏み跡があり、赤布等があるものの、前途はかなり厳しい大佐飛山頂ピストンと思えた。
曇天の空の下、アスナロ、コメツガ、シラビソ等の樹林の中、シャクナゲと根曲がり竹が密生していて薄暗く、踏み跡も薄くて、心細いものだった。前方には最初に目標としている無名峰の尾根が見え、手前に小さな1622mピークを望めた。やがて鞍部に到着した。ここが大蛇尾川と小蛇尾川の分水嶺だが、いずれは合流して、那珂川へ注ぐ兄弟みたいなものだ。
鞍部の次1622mピークへと登り返す。ここは明瞭な尾根道であった。さらに登り進むと、尾根は広く変化し、根曲がり竹を掻き分けつつ登り進んだ。左(東)側は残雪が多く残り、この残雪と藪の境目にか細い踏み跡が続き、所々に古い赤布が残っていた。
歩き出して1時間後、無名峰とブリキ板に書かれた1850mピークに到達した。視界が良ければ大佐飛山を望む事が出来そうだが、今はガスの中だった。
やや東よりに進路を変え、下って行く。残雪にはトレースが残り、これを辿って行った。
例年よりも今春は暖かく、残雪も南斜面では既に消えて、藪が立ち上がっていた。シャクナゲの中を通る尾根はさらに手強く、歩行に苦労した。
中間点にある1824mピークが近づくと、ここは北斜面で残雪があり、これを登り進むのは快調な足取りになって来た。
ピークを越えると、再び南斜面の藪漕ぎが待っていた。これに耐えて進むと、シラビソやコメツガ、ダケカンバ等の樹林帯に変化し、残雪が山肌を覆って来た。
いよいよ大佐飛山頂へと続くトレースも明瞭になり、これを辿ってどんどん先へと登り続けた。空は晴れずに曇天のままで、寂しい思いの山行が続いた。しかし大佐飛山頂は確実に近づきつつあった。
前方に山頂らしいピークが近づく。山頂の肩に辿り着いた。さらに南に向きを変え、少し進むと真新しい「大佐飛山」の山名板が木に取り付けられていた。時に6時45分、出発して2時間15分、順調に到達する事が出来た。山名板の月日の記入は5月4日、昨日登った東京のパーティだった。
この大佐飛山は栃木の山の中でも、最も厳しい山行を覚悟していた秘峰だった。ここへ立てたのは自分としても快挙と思いたい。ただそんな私の思いも、空は曇天のままで、辺りは薄暗いままだった。
チュコレートを食べ、お湯を飲んだだけだったが、私は充分な感激と満足感に浸る事が出来た。体が直ぐに冷えて来たので、記念写真を撮って、わずか15分で山頂を後にした。
帰路、雪面歩きは順調に進めたが、南斜面の藪は下方に倒れ込んでいて、これを登るのには苦労した。
やがて後続のパーティとすれ違って、挨拶を交わした。大佐飛山への道を聞かれたので、後30分の残雪歩きですと励まして、別れた。
山頂より1時間で無名峰に戻った。ここまで来ればテントへは1時間も掛からずに戻れるはずと思えた。帰路のスカイライン、20km歩行を考えれば早くひょうたん峠へ戻って、テントを畳み、早めに歩き出したい。
踏み跡だけを辿って、ただ藪の中を一気に下って行くだけ、と思ったのが誤りの始まりだった。どんどんと下って行って気が付けば、いつの間にか踏み跡は薄くなり、周囲に赤布は全く見当らない。登り返し、確実に赤布のある地点まで戻り、方向を確認して再度下った。
ところが又も赤布は見当たらない。私はパニックの一歩手前の状態になっていた。
頭の中で、仮に方向を間違えても、東に寄り過ぎなければさして危険個所はないだろうと思えた。ままよと、そのまま下る事にした。
やがて降りきった谷は、残雪に覆われた小蛇尾川の源流部だった。東に約200m、本来辿るべき尾根が見えた。ここでそちらへ方向修正をすれば良かったのに、真北の斜面を登れば、塩那スカイラインに到達出来るので、そこから東へ歩いて行けば良いだろうと安易に判断した。これは失敗の上塗りと言うべきものだった。
太陽が顔を出し、時計は未だ10時前だったから、こんな無謀な判断をしたが、単独行を考えれば無茶だったかもしれない。まぁ自分の甘い判断、誤った判断は自分自身にだけ降り掛かるだけだから、甘んじて受けた。
残雪の急斜面にピッケルを突き立てて登り、ふうふうしながら藪を漕ぎ、やっと登って辿り着いた道路、もうくたくたとなっていた。
足を引きずりつつひょうたん峠へ辿り着いた。すると後続していた東京のパーティは既に昼食を済ませて、昼寝をしたり、衣服やシュラフを太陽の光へ干していた。
とうに私は到着していなければならなかったのに、何ともお恥ずかしい限りだった。
私のテントは風にあおられて、向きを変えていた。心配顔の東京パーティに道迷いの失敗を話し、心配して頂いたお礼を言った。
彼等は西の日留賀岳を登ってから塩原温泉へ、私は東から南へと延々に続く塩那スカイラインを20km歩いて行かねばならない。お気をつけての挨拶をかわして別れた。
遥か川下に見えるスカイライン、ここから見える地点は未だ10kmの距離だった。
正に気が遠くなる程の単調な帰り道だった。
途中からは歩くのも飽き飽きして来て、目に見えるタラノメやフキノトウ、タカノツメ等を採りつつ歩き進んだ。そんな訳でゲート到着は何と18時になって、夕闇が迫っていた。
地図と高度計とコンパスとを良く見て、自分自身の現在地を常に確認する事を怠らず前進する事。さらにピークを下る時の方向の再確認、安易な判断は危険だと言う事をイヤと言う程知らされた山行、足の豆を作っただけで、どうにか無事終了出来た。
でもそれだけに、大佐飛山の素晴らしさ、厳しさと山懐の深さを実感出来た山行だった。

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